昭和52年02月19日 朝の御理解



 御理解 第88節
 「昔から、親が鏡を持たして嫁入をりさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。」

 昨日吉井の杉さんのところの里のお母さん、北川さんですね。もうあの五年の式年祭を私が奉仕させて頂きましたが、丁度終わってから御直会を頂きかかっとりましたら、あの椛目の田中さんが、赤ちゃんの初参りをしておると、言うて参りましたから、半ばに立たせて貰うて、それからお礼をさして貰いました。田中さんはあんなしとるけれど非常に律儀な、儀者というでしょうかね、自分の家ではまあ言うなら、しだごだのとこがあるけれども、こと神様の事とか他人とか対しては、非常に義理堅い所がある。
 ほらもうほんとに私共真似が出きんくらいに、まあ一つのなんですかね、儀式的な事と言いますかね、家ん中のそりゃもうきちっとした事をされます。昨日ももうそれこそ嫁ごと子供あの孫達と連れて、もうそれこそお供え物万端取り整えましてね、もう赤飯からお神酒から、もう全ての事にほんと行き届いた事をして、そしてまぁ初参りの印を、ま見せられるわけです。
 ご承知のようにまあほんとに金光様の信心しとっても、と言われる様な所がないじゃないですおおありなんです。私の従兄弟にもなりますし、小さい時には隣同士ですから兄弟のようにして、ふとっとりますから、ね、所がどこか何かがこう一本狂っておる、と言った様な感じがするんです。所が私はいつもあの田中の事を思いますと、この神様は確かに信心がどうであっても。
 ただお縋りをしてこの信心が続けられておる限り、神様がもう何とはなしのおかげを下さるなと言う事は、思いますですね。娘二人息子一人そして息子はいわゆるあの定雄さんです。ね、それでもやっぱりあのほんとに私共からあの、やっぱし嫁も貰うたし子供も次々とでけて、今度四人目がでけました。そしてならべつに誰にお世話になると言う事もなしに、やっていけておるというだけでも、それこそあの立派な子供達がおっても、どうあっても難儀困っておるという人達もある中に。
 なら困まっとらんという訳じゃありません。良い生活をしておるとも思われませんけども、もうとにかくあの成程神様がもう何とはなしに、それこそ影になり日向になりして、おかげは下さってあるなあぁと、というてなら、はぁ金光様の信心しござるけんあの人は違うとか、金光様の信心長年しよんなはるから、立派にあの儲け出しなさったとかと、言う様な事はないです、皆さんご承知のとおり。
 昨日朝お礼に出て、昨日一昨日あの雪の日に、自動車があのスリップしてからでしょう、あそこの家にぶつかって、もうとにかくタンスのものが全部落ちるぐらいにあった。下には孫と二人で、そのお婆ちゃんが寝とったのはおかげ頂いてから、ほでまぁあれだろうから、あのまぁお詫びをなさったけど、いいえもう私どんが助かっただけでも、ほんとおかげ頂いとる、どうぞご心配下さいますなと言うて向こうに行ったけれども、昨日お詫びに、お礼に出て見えたと、というて昨日もお届けしておりましたが。
 もうほんとにどう言う時でも確かにおかげを頂く。もしこれに田中さんがですなら今日の御理解のように、ね、いわば辛いとか苦しと言う事もあろうけれども、そういうときに鏡を立ててはあこんな表情、こんな顔では自分の心の状態がこの状態だと思うて、黙って治める生き方をしておったら、ね、私はほんとに今頃はもっともっと素晴らしいおかげを頂いておっただろうと、信心は長いのですから。もうそれこそ七十何年でしょうね、信心が私共が信心のまぁ大元でもあるわけ、あちらのおば達の信心が。ね。
 それは一時あのおば達がおります時分な、あの椛目の極楽屋と言われるくらいに、まぁそれこそ、こじんまりながらも、ほんとにまぁいわば幸せそのもののような、私どもが見てうらやましいような生活をしておりました。けれども叔父たちが、おば達が亡くなって、それからもう次々とまぁ、難儀な事がまぁ連続で、まぁ今日でも、まぁどうやらああして、生活が立っておるというだけでも有り難いが、その結局四人もの孫の世話やらなんやらで、まぁ届かんなりにも、まあ今日のあのような状態なんです。
 それで例えばなら、親戚づきあいならしんせきづきあい、こと神様なら神様と言う時には、もう絶対人腹に落ちないというような、その生き方をされます。そりゃ家当りの孫達が、いろんな例えばお節句じゃ、なんじゃと言う様に、もうこっちは私があげなこつには無関心ですから忘れとると、向こうからちゃんと、きちっとした事をして来るです。 盆正月でもちゃっとする。さあなら御大祭というたらもうきちっともう御造営費を一番口にお供えされます。
 こと神様と言う事になって来たりするとそうです、というてならうちの神様はある意味ではしだごだ、生き方と言うものは、ほんとにあれで金光様の信心しておってという、まあいうならば、後ろ指差されるような状態のところがありますけれども、唯どうであても、信心を、神様を、金光様をはずしきらん、外しきらんというがもう絶対なもの、何かそこに持っておるという生き方をすれば、何とはなしに、何とはなしにおかげ頂く事だけは間違いないですね。
 昨日もその孫の初参りをさしていただいて、私丁度御直会半ばにこちらに出てきて、その神様にお礼を申させて頂きましたら、三番目でしょうか息子が一人おります。それがもう色の白うしてほんとこいらしい、顔してるそれその赤ちゃんのじゃなくて、そのを頂くんです。お名前を頂いておるのが、みのりというんです。実の徳と書いてある。そらそん子達の名前はみんな、そりゃもう私共のあの椛目のあの方が申しますが、うちの子供の名前は、あんまりよか名前じゃなかばってん。
 隣の子供の名前はとてもええ名前ば頂く、と言った様な事を言う良いの悪いのじゃない、神様から頂くのですから、けれども田中、実の徳と書く、ご神徳の徳、もうほんとにうちの子供がほしかごたある名前ですよね。もうその、姿を頂いてですね、頂きますことがね、こんなことを頂きました。「渋柿の皮をむかれてつるされて、甘くなるぞえ、白粉ふきつつ」、と頂きました。ね。
 「渋柿の皮をむかれてつるされて、甘くなるぞえ、白粉ふきつつ」と信心しておると、神様がどうかしておかげを下さろうとする働きが始まるです。ね、神様は決してなぜさすりばっかり、甘やかしてばっかりしておられません。長年信心させて頂いておっても、芽が出ないというか、ほんとにいうならば、はあ輝かしいおかげを頂なさる、何十年信心を続けてござるけ、と言う様な人の中に、なら私共のあの、今の田中の家のような所が、もう大きなあの長い古い歴史を持った教会ん所には必ずあるです。
 信心はもう絶対やめきらん、それでいてなら信心しよってからとなら、そのまぁいうならうしろゆびさされると言った様な感じの、ですけどもう、なんとはなしにやっぱおかげと実感するようなおかげを、はあほんとに間一髪まごと共にほんとに、あの自動車が飛び込んできて即死したっちゃしようないとこを、おかげを頂いて、ね、そいで相手の人がたとえばお詫びに行きゃ、いやこげなおかげ頂いたけん、ご心配要りませんと、言う様なとこはあるわけです。ね、
 なら神様他人事というときには、もう決して不義理なことなんかはもう絶対もうしないという、まぁ律儀な生き方をしてはおるわけです。ね、けれどもその家のめぐりというですか、人のめぐりというですかどうしてもなら、もうあの人ばっかりはと言われるような所が、例えばあったりそういう家ですね、信心しておっていうならば金光様の御信心振りというものが、いつまで経っても身につかない、家に出来ないという家庭やら人があります。ね、信心しよってと自分は分らんです、ね。
 自分は分かりませんけれどもです、ね、例えばなら私がその従兄弟の生き方というものを見ておってです、ほんとに目にあまるような事もあるけども、私共が別にそのどうこうと、言うてどう言う事もないですけれども、まちっとどうか考えなければいけないよと言う所が、沢山あるですけれども、なんとはなしにおかげを受けておると言う事は事実、又おかげ頂きたいという願いをもたんではないのですから、ね。
 結局ほんとに改まりがでけんと神様はおかげは頂かせたいのですから、皮をむかれてつるされて、と言う事になるのです。まだ十年二十年と言った様なのは、私金光様のご信心はね、もう決してもう目先目先のもんじゃないと思うです。ね、何代がかりんでも、この神様の言うならしがみついておる限り、何とかしておかげを下さろうとする働きがある。丁度なら両親であり、私の叔母叔父たちの時には、まぁおかげを受けておって、その後を受けた今の田中さんが、いうなら難儀をして、ね。
 定男さんたちが難儀をして、そしてならどげんなりますか、その一番先代から言うとやし孫に当たりますかね。だから叔母達夫婦、それから今の楽長しとります田中さん、そして定男さん、そしてその子はやっぱやし孫になりますね。それで今言うじつ実徳さんの時代になった頃にはです、ね、神様がやっぱり金光様の信心ばしござったけんで、おかげ頂きなさったと、言う様な事になるのだろうと昨日、私は思いました。
 もう田中さんのその事を感動して、本当にこの子が神様の御用にでん、お役にでん立たせて頂くならばどうぞおかげ頂きますようにと、改めてお願いしよりましたがね、神様のしがみついておる限り、私神様がいつかはおかげを下さる、どんなに改まりが出来なくても、神様がそれこそ皮をむかれてそれこそつるされてとね、それこそ皮をむくようにして、それこそぶら下げるようにして神様がある意味ではね、渋みを抜こう取ってやろうとする働きがある。その渋のがある限りは誰も食べてはないです。ね、
 けれどもそれが皮をむかれてつるされて、ね、それこそ干柿になってそれこそ白粉ふきつつ甘くなっていく、そこからは皆に愛されるもの、ね、成程金光様の信心しござったから、やっぱお徳を受けなさったじゃろう、それこそ四代掛りででもおかげを下さる。五代にまたがっても信心が続いておる限りそういう働きがある。何十年信心しよるけれどもおかげの芽が出らんというのは今こそ自分が皮をむかれて、つるされてと言う所ではなかろうかと悟らにゃぁいかんです、ね、そして本気でです甘い私になろう、円満な私にならせて貰おうね。
 昨日も久留米の井上さんが、昨夜のお祭りにお参りして見えてから、先生もう今日はどうも失敗しました。沢山従業員の方がおられます。昨日なんかの会議がありました。もうたいてい言わんでも黙って治めようと思ったけれども、もう昨日ばっかりはどうしても、それこそ「金光様金光様」とまあ申しましたと言っておられる。ね、これは徹すると言うことなんですけれども、ね、口やかましゅう言うたから人がそれでわかってくれたりでけたりすれば、良いですけれども、ね。
 これは言うただけじゃでけん、言うただけじゃ分からんと悟っとたならです、もう本気でいうならば、ね、黙って治める生き方を身に付けなければいけません。子供が言うことを聞かん、従業員が言うことを聞かん、かんしゃくまわして、なら怒り散らかす、ならそれで雨降って地かたまるような感じがするけれども、ただそれだけの事のおかげだけではいけん。もうほんとに何とも言い様のないようなおかげに成って行くと言う事は、黙って治める、それは自分の子供の中に。
 そういう屑の子がおるならば、自分の方のお店に、または従業員の中にそういう言う事を聞かんとがおるならばです、先ずは自分自身の心の中に、いうならば教えの鏡を前に立ててみると、はっきり自分の姿がそこに映し出されるように、はあ成程これじゃ人が言うこと聞かんはずだというものを頂いて、改まって治めていくという生き方を続けて行くところにです、ね、八十九節には、此方の道は傘一本で開く事がでけると言う様にです、その傘一本が与えられる。
 心にゆとり安心が頂かれる、その安心がおかげになって来る、その安心が輝かしいまでの、言うならば人間もつくり家も造り、おかげもつくって行くのです。ね、言うならばめぐりが深ければ深いほど、おかげも大きいというのは、ね、人からはいうならあんまり大事にされないような、ね、それでも神様とこうすがらして頂く所からです、ね、その人が甘くなるまでは、ね、白粉ふきつつ甘くなるまでは、神様がですもうあらゆる形を持って窮屈な思いをさせたり、ね。
 それこそ身の皮はぐような思いをさせたり、それこそぶらさげちからでも、渋が抜けていく事の働きを神様がなさると言う事をです、私は思います。そういう信者を私はいくらも知っています。ここの御信者さんじゃなく他にも、ほりゃもう代々お道の信心させてもろうて、けれども近所の評判があんまり良くない。はあいんにゃようなるどころではない悪い、あげんとが金光様の信心するなら、私どんな参ろうと思いよるばってん参らん、と言ったような人達すらがある。ね。
 おかげを頂いてです、ね、自分のいうならば癌のような、どうにもでけないようなものを、そこを私は辛抱して、ね、黙って治めると言う事は、自分の周囲のことだけじゃありません。自分の心を愈々治めさしてもろうて、ガタガタ言うならば言わんですむ、そういうために磨かして貰い改まらして貰うて、ね、一段一段というなら人物を作っていく。神様の気感にかなう私に成らせて頂く、それこそむつ屋の信司さんに私は申します事ではないですけれどもあんたが汚いからよ。
 あんたが大きゅうなる以外にはないよ、とそれに例えば泣く泣くでも取り組んで、辛抱して行く生き方を身に付けて行くならばです、ね、神様がそれこそつり下げたり皮をむいたりまでして、いうならば難儀が続くと言った様な事はないと私は思う。信心の愈々根本のとこを分からせて貰うてです、ね、何故言う事を聞かないか何故こういう難儀が続くかと言うことが、はっきり鏡に出てくるならばです、ね。
 ならこちらの顔色を自分の心の状態を改め、変えて行く以外にはないと心に定めさせてもろうて、黙って治められる信心、そこにはもうえも言われぬ、もうじつに素晴らしい神様の、いうならばお働き、ね、もうほんとに黙って治めると言うことの素晴らし事は、ね、皆さんもまあ、体験をなさっておられると思いますけれども、それに徹する事だ、ね。そういう生き方をです、愈々身に付けて行きたい。「渋柿の皮をむかれてつるされて、甘くなるぞえ白粉ふきつつ」というのは。
 歌で言うとこれだけの事ですけれども、私がなら田中の事の例をとって申しましたが、もうそれこそ、親子孫ひ孫と至るまでに、私どもがずっと眺めて来ておるわけで御座いますけれども、ほんとにそれこそじゅつないです。神様もどんなにか、じゅつのうあんなさるだろと思います。もうていげいそれこそ日勝り、月勝り、年勝りのおかげを頂いて、そしていうならば代勝りのおかげの頂けれる信心を、愈々身に付けて行かなければならない。その信心のまあ一つの大事な所としてです。
 自分を見極めると言う事問題そこにある難儀、その難儀そのものは自分の心からだと、しなければいけません。おかげもわが心なら、難儀も矢張りわが心からと、悟らなければいけません。そこから私はそれを悟らしてもらう所から、それがいわゆる黙って治めると言う様な信心がでけてくる。そこにはいうなら代勝りのおかげにつながってくるわけであります。皆さんの周囲を眺めて見られて、長年信心をしておっても、そりゃもう合楽の場合なんかまだようやく二十年か三十年ですから。
 只今皆さんが修行中と言う事でもいいです。またそうなんです。だからその修行中のときにです本気で一つ、ね、自分の心から改まらせて頂かんと、それが又子に伝わる、又孫にも伝わる。難儀が次々と伝わったんでは、いけないでしょう。もう難儀はもう私一代限り、どうぞ子に孫には、おかげを頂かして下さいと、願う心は皆が持っておるのですから、そんためには、愈々本気で改まらなければならないと言う事で御座いますよね。
   どうぞ。